【Books】『<弱さ>のちから』

以前、友人知人に送っていた「GRADiメルマガ」No. 94(2019.03.01号)に書いた文章の再掲。

ある友人からの相談に応じた後、それまでかなり落ち込んでいた自分の気持ちが少し浮上してることに気づき、この文章を思い出した。


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他者に関心をもたれている、見守られているのではなく他者へ関心をもちえているということもまた、ひとに生きる力というものをあたえてきたのではないだろうか。

鷲田清一 2014(2001)『<弱さ>のちから』講談社学術文庫

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東畑開人さんとのトーク(2019年2月20日 @ジュンク堂書店那覇店)のために、彼の『居るのはつらいよ』を読みながら、そういえば、鷲田さんの本に重なる話があったよなぁ、と思い、度重なる引越しの中で処分した同書を買い直した。そして、再読する中で再発見した上記の言葉。


その前のところで、「他者の気持ちの宛て先であるということ、言いかえると、他者のなかにじぶんがなんらかのかたちである意味のある場所を占めているということ、このことを感じることで、生きる力が与えられるというのはわかりよいことである」とある。


確かに、それはわかりやすい話。「だれかある他人にとってじぶんがなくてはならないものとしてあるということを感じられることから、こんなわたしでもまだ生きていていいのだ……という想いがそっとたちあがる。<わたし>という存在に顔がよみがえるのだ」と言い換えるその言葉に、そうそう、とうなずく。


しかし、その地点に留まらないところがさすがだなぁ、と思う。冒頭に引用したのが、その部分。彼は、その具体的な例として、「横でふらふら倒れかけているひとがいると、それを察知したひとは思わず手を差し出している。失意のどん底にあってホームから飛び降りようとしているひとでも、思わず手を差し出している」ということを挙げる。


そして、この本のタイトルにある、<弱さ>の話に至り、「<弱さ>はそれを前にしたひとの関心を引き出す」と。これらの話に至るまえに、鷲田さんは、『フラジャイル』の松岡正剛さんの言葉を紹介している。


「『弱さ』は『強さ』の欠如ではない。『弱さ』というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである」


それと合わせるて表現すると、<弱さ>とは、誰かに生きる力を与えてくれる現象とも言えるだろう。それはもちろん、「そんなに可哀想な人がいる」、という序列化によるものではなく、<わたし>の中にある関心を(それは、愛とも言い換えられる)引き出す存在として。


とはいえ、自分の<弱さ>は、そんな風に、肯定的にとらえることは難しい。なぜ自分の<弱さ>に対してはそうなのか、考える必要がありそうだ。

GRADi

GrassRoots Actions for Diversity オープンリーゲイの文化人類学者 砂川秀樹