経験を拾い直す

2-3年前に、出版する予定で進めていた(けど、自分が書き進められずぽしゃらせてしまった<編集者のTさん、ごめんなさい)エピソード集のための試し前書き。



フィールドワークとは、調査の対象としている人たち、行為、場面などを切り取る作業だ。ここでいうフィールドワークとは、ある場所へ行き、あるいは住み、調査をすること、または、ある集団の中に身を置いて調査をする学問の方法のことを指している。


当然ながら、その対象とする場所で/相手に起こること全てを見聞きできるわけではないし、また見聞きしたものを、すべて記録することなどもできない。そして、記録したことの一部しか論文の中には現れない。だから、フィールドーワーク、そして、その先にある民族誌などの研究結果は、切り取り作業の積み重ねとなる。


そして、実はそれは、自分自身をも切り取る作業でもあるのだと最近思うようになった。なぜなら、フィールドワークでおこなわれるやりとりと観察は、常に自分と対象とのあいだに生まれるものだが、対象と同じように、やりとりし観察する自分も、決して途切れることのない「私」の生きてきた/生きている時間の中から、その場所にいるその時間の中で切り取られることになるからだ。


私がそのことを強く意識するのは、私自身が「ネイティブ人類学者」だからなのかもしれない。私は、文化人類学者を名乗っている。しかし、かなり異質な文化人類学者だ。


文化人類学という学問は、長い間、文字を持たない社会や、産業化されていない社会などを調査してきた。しかし、今は、調査の対象の範囲はかなり広がり、日本に身を置く研究者がヨーロッパや米国のある地域や集団を調査したりもする。また、日本国内のある集団やネットワークを調査することも珍しくない。


 しかし、それでも、文化人類学者は、自分が慣れ親しんでいない場や集団、つまり「異文化」を調査することが前提となることが多い。それは、自分と「異なる」ところに入ることによって、新しい発見があり、距離をもって見ることで、その中に馴染んでいる人たちが気づかない点を抜き出したり、分析したりしやすくなるからだ。


一方、私は、ゲイとしてゲイのコミュニティを、しかも、ある程度慣れ親しんだ新宿二丁目という場をフィールドとして調査した。そのため、地続きの経験をいかに切り取るかということに苦心することになった。

 

けれど、ネイティブ人類学者に限らず、また文化人類学者に限らず、どんなフィールドワーカーも同じように、地続きのものを切り取っている。対象地域に行ったときに、対象集団に入ったそのときに切り取りが始まっている。そして、そこで「フィールドノーツ」と呼ばれる、観察したものを記録するという切り取り。おそらく、そのとき、その対象を切り取っていることは意識しやすいだろう。しかし、自分自身も切り取っていることは必ずしも意識にのぼらない。あるいは、意識したとしても、あまり語られることはない。


そこでやりとりし、観察する自分は、ある人生を生きてきた自分だ。どんなに全く違う土地の、「異文化」性が高いと感じられる地域へ行っても、何かを見たときに、やりとりをしたときに、これまでの自分との照らし合わせがあり、自分の昔を思い出したり、そのことでなんらかの感情が沸き起こったりしないといことはないだろう。また、そのときどきに自分の身に起きていることも、そこに入り混んでくる。


私は、自分がそうして切り取ってきた経験の中で、切り落としてきた話、そして、自分自身を、もっと広い範囲(意味)でのフィールドワークでの経験として拾い直し、書きたいと思うようになった(もちろん、それも、切り落としてきた一部をまた切り取る事に過ぎないのだけれど)。それは、自分がこれまで/それまで生きてきた生が、フィールドでの経験と照らし合わされることでもある。


それは、HIV/AIDSやLGBTのコミュニティ活動に深く関わってきた自分、生活をする中で多くの問題を抱えた自分、そして、そんな肩書きを持つ以前の自分と明確に分けられない自分、その中で出会ってきた様々な人たちとの出会いと別れ、その間にある関係性の様々な変化...「フィールド」とその周辺でのやりとりを思い起こす作業だ。


ときに、幼い頃の自分の経験も呼び覚ますことにもなるだろう。フィールドワークをしていた自分の中には、幼い頃の自分も存在しているのだから。それは、つらい気持ちを蘇らせることも少なくないだろう。でも、そうしたい、と思うのは、自分の人生がいつ終わるかしれないという思いが、いくつもの別れを経験して強く感じているからなのかもしれない。

GRADi

GrassRoots Actions for Diversity オープンリーゲイの文化人類学者 砂川秀樹