LGBTの人たちが望むこと?

「結局、LGBTの人たちが望むことはなんですか?」

先日、グループワークを織り込んだある講演会で、一通り終わったあとに、参加者からこのような質問があった。記憶があいまいないので、もしかしたら冒頭に、「結局」はつかなかったかもしれない。でも、その人の口調に、私は、その言葉を読み取った。


そして、私はとっさに、「LGBTではない人と平等に扱われることです」と言い、具体的には、同性との関係では同性間の結婚が認められること、性別違和を持つ人にとっては、手術をしなくても性別が変更できることにより、だいぶ状況は良くなるだろうと答えた。


しかし、帰り道、すぐにその答えを悔やんだ。本来なら、LGBTといってもいろんな人がいるわけで、そんな風にくくって、「LGBTの人たちが望むこと」と言えるものはない、と答えるべきだった。同性愛者でも、同性婚を実現したほうがいいと思う人もいれば、反対の人もいる。どうでもいいと思っている人もいる。トランスジェンダーの人でも、さまざまだ。


その質問は、「女性が望むことはなんですか?」「〜県民が望むことはなんですか?」などと尋ねるのと同じことで、そうやって、一括りにし、一枚岩の存在として見てしまうがマイノリティへの抑圧だということを伝え、「私が実現を望みたいもの」(あるいは、LGBTに関する市民運動〜その担い手はLGBTに限らないわけだが〜の中で、主に求められているもの)として答えるべきだった。


そう反省しつつ、もしかしたら、今回、この講演の始まりのほうに入れた留保的な説明がその人を混乱させたのだろうか、とも思った。


それは、LGBTという言葉についての簡単な説明の後に入れたもので、その言葉で括られることに反発する「当事者」もたくさんいるということ、その背景には、他の属性を持つ人たちと一緒にされることについて、日常的な感覚との差があり、LGBTとして世間に知られることへの不安があることが考えられる、という話だった。


そして、社会的な視点から見て、社会的に解決していこうとする活動と、そうした反発や不安には相反する志向性が土台にあって、その違いにより摩擦や対立が生じるのは仕方ないこと、そうした摩擦や対立は、マイノリティの動きにはつきものとも話した。その上で、私は、社会的な視点で見て、社会的な解決していく自分の立場を明らかにしたつもりだった。


まさにその説明こそが、LGBTといってもいろんな人がいるということをわかってもらうためのものだったのだが...。こうして、留保も加えながら説明すると、「わかりづらい」のかもしれない。しかし、さまざまな人がいる、ということを前提にし、その中で自分の立場から話していくということは、私にとっては外せないなぁ、と思う。



GRADi

GrassRoots Actions for Diversity オープンリーゲイの文化人類学者 砂川秀樹